2023/6/1(木)

『アフター・サン』を見るのがこわかった。それはそれが父娘の話であるからだ。わたしの父娘の関係を省みるのがいやだった。できれば、できる限り考えたくないこと。『アフター・サン』は11歳の娘と、31歳を迎える父親のトルコでのバカンスを描いた作品。離婚し普段は母親のもとで暮らす娘が父親と二人だけでバカンスを過ごす。象徴的なドラマはなく、ただそこに父娘二人だけの時間がある。父親の娘への眼差しを見ながら、かつてはこうであった瞬間がわたしにもあったと思い出していた。わたしも父親と二人でキャンプに行ったことがある。そのキャンプでのことはほとんど記憶にないけれど、毎年のように行っていたのだから、わたしもきっと楽しんでいたのだと思う。うまくいかなくなったのはいつからだろう。わたしが成長したからか。父親がおかしくなったのか。いつから会っていないんだろうか。いつまで会わないんだろうか。わたしは会いたいと思っていない。母と離婚調停をしている父親から、数か月に一回、ラインや電話がくる。一度長いメールも来た。わたしはそのすべてを一切無視し続けている。そのことを兄に伝えたら「誰とも連絡取れないなんてさすがにかわいそうだ」と言われた。わたしは「そんなの自業自得。わたしには関係ない」と返した。なぜわたしがいまさらになって父親のケアをしなければならないんだろう。話を聞いてやる義理などないと思うほどに、もう関係は壊れているのだ。生きていてほしいのかどうかも、もうわからない。そのあと兄の元へ父親から脅すようなメールがきたそうだ。わたしへのメールは気持ち悪いほど優しい口調で自分のことしか書いていないものだった。父にとってわたしはどんな存在なんだろうか。『アフター・サン』を見ながら、自分の父親との思い出を重ねて見ていた。今は憎くて仕方がなく顔も見たくないが、父親との思い出はある。よく二人で遊びに出かけ、わたしのわがままを叶えてくれた。比較的最近行ったグアム旅行だって、楽しかったのだ。それでも、たとえ幸せな記憶があったとしても、全てが帳消しになるわけではない。憎いのバロメーターが振り切れている。振り切れるほどに、わたしを追い詰めたのは紛れもなく父だ。『アフター・サン』に描かれているように、きっと父親には父親の人生があって、そこでいろんな思いをしたのだと思う。そんなことはわかる。だとしても、それをかぶるのがわたしの人生ではない。できる限り、家族の話はしないようにしてきた。しても、幸せの側面だけを話した。たしかにわたしには愛された記憶がある。だけど愛されなかったように振るまう。それがわたしにとっての真実だから。だって、そうでなければ。これはわたしにとって必要なこと。

2023/5/21(日)

晴れていると晴れているという理由だけで一時間ほど散歩してしまう。二時間になることもめずらしくない。朝の日差しを感じてコーヒーを飲んでいると、淹れたばかりのコーヒーも放置して外に出たくなってしまう。牛乳を追加してカフェオレにしてから冷蔵に入れて外に出る。散歩はいつものルートがあるけれど、なぜかそちらに足が向かない。めちゃくちゃに住宅街を歩く。住宅街なんて歩く意味がないから知らない道ばかりで楽しい。びっくりするような豪邸を見つけたり、よさげなデザイナーズマンション(この言い方は嫌いだけどこの言い方しかない)を見つけて、家賃を検索したりする。

文フリに行くことは決まっているけど、行くのが億劫だった。欲しいのに買えない事実と対峙しながら、制作者の前に立つことが苦しい。メイクをしながら真空ジェシカのラジオ父ちゃんを聴く。川北さんが竹内ズの解散について「もっとはやく解散するべきだった」と言っていて、わたしは川北さんのこういうことが好きだと思った。川北さんの優しさに触れるたび、ぽっとしてしまう。現行、唯一の推し。

モノレール。窓際に立っているといまに落ちそうだなって思う。工事現場の床と目が合う。電車が落っこちたら、たぶん最後の記憶はこの床になるんだろうな。落ちている間の記憶は失われるだろう。大井競馬場を超えたあたりの風景が好きで、これを見ると文フリにきたなと思う。真下には湾と対面にはマンション群と緑。水と緑のコントラストがしばらく続いていくのが好き。大きな水が好きだという話なんどもなんども繰り返している。

ツイッターで「混みすぎ」「暑い」というつぶやきをいくつも見ていたので覚悟していたのだけど、人の多さに圧倒される。とりあえず目当てのブースに行ってそれから考えようと思う。川名潤さんブースに行くが売り切れていて、そりゃたしかにそうかと思って仕切り直し。

寺本愛さんのブースで『うつくしき忘却』が好きだと言いにいく。好きだと言いにいくって変だけど、好きだと言いにいくとしか言えない。もともと寺本さんのイラストは好きでZINEも持っているけど、文章も寺本さん的な世界観で地続きであるようで、表現が変わればまったくちがうものになる。こうしてどちらも触れることができてうれしい。

佐々木ののかさんと辻本達也さんのブースに。佐々木さんのことはたぶんわたしが大学生の頃から読んでいるので、もう7,8年読み続けている。戦い続ける年上のお姉さんの姿はわたしにとっては希望だった。少しずつ変容していく様をツイッターで見させてもらえることもとてもありがたかった。自分にとってのよさを追い求める人はかっこいい。目の前にいる佐々木さんはほんとに素敵な人だった。

me and youブースで文通日記を買う。she is時代にイベントにお伺いしたことあったけれど、どうしても二人から買いたかった。「メルマガとはやっぱり印象が変わる」とぽろっと言ったら、おふたりが私たちは客観性を失っているから、その話詳しく聞きたい!と言ってくれて、その反射神経のよさというか姿勢にとても惹かれた。その瞬間におふたりのパワーに少し触れた気がしてうれしかった。憧れている。

雰囲気たちブースで『われわれの雰囲気』と、買うタイミングを失い続けていた『35歳からの反抗期入門』と柏木さんの『すっきり聴くための対話集』を買う。ブースはさすがの盛況ぶりだった。隣の前田さんのブースも気になりつつ、やっぱり手が出せなかった。

ブースをまわる余力はあるけれど、これ以上買うと今後の生活に響くので、諦めて帰ることにする。好きで読んでいる書き手がずっと活動を続けていることがとてもうれしいから、そのことは伝えていきたいし、そのぶんのお金は払っていきたいのに、な。お金がないことについて考えはじめると、どうしようもない気持ちになる。どうにかお金を持って、自分が使いたいかたちで使うしかない。いまお金がないことはしょうがない。責めない。

帰り道、earth wind and fireを聴く。最近、何を聴いたらいいか分からなくてearth wind and fireばかり聴いてしまう。なんでかって、最高だからだ。

2023-4-18(火)

5時半に目が覚めていたのに、このところ疲れが溜まっているのか、朝8時前に目が覚めるように戻った。太陽がのぼりきる前の静けさの時間は特別だった。薄暗い窓がぱあっとあかるくなっていくさまをしずかに見届けている。ゆっくりストレッチしながら白湯を飲んで、朝ごはん食べて、日記を書いていると一日がはじまる。無理に起きようとしていたわけじゃなく、自然とそうなっていたから、少し寂しく思うけどたくさん寝るのもいい。今日は昼寝もしたからまだねむくない。

おそらく朝5時半に目が覚めていたのは躁気味だったのだと思う。これまで躁鬱人間だ!って冗談めかして言ってきたけど、ほんとにうつになってみて、いままでの出来事が「躁状態」と「うつ状態」で説明がつくなとふと腑に落ちた。人生でおかした顔を覆いたくなるような羞恥や失態はだいたい躁状態のときに起きたものだと思うと納得できる。躁状態の爽快さは、それ以外の状態とはまったく異なる。万能感というけれど、ほんとにそういう気持ちになる。感覚がなにもかも変わる。他人の感情もダイレクトに波のようにやってきて、うれしくてもかなしくても感情に絡め取られるように泣く。生きているだけでアイデアが湯水のようにとまらない。とにかく感情があふれて発露する先がないのでひたすらツイートが増える。そうした躁状態のときに、少しでも落ち込む出来事が起きるとそれに絡め取られて一気に鬱転してしまう。鬱のときはすべてのやる気が損なわれてしまう。気がつけば寝転んでなにをしたかとくに覚えてない時間が過ぎている。なにもしていないのに疲れている。人生で気づかない間にずっとこれを繰り返していた。自分の生きづらさやコントロールできなさはまちがいなく、ここに起因している。よくやってきたなと思った。

休職してからだいぶ落ち着いてきて、いまは自分の心地よい生活やそのリズムを探している。なにがよくてなにがわるいのか。小さな実験をするように毎日を過ごす。そういう日々のなかで、いかいにこれまで自分のことを見れていなかったと痛感した。ストレスを感じていると、自分を感知する能力が落ちるような気がする。小さい頃から家庭が心から安らげる場所ではなく、いま思えばストレスを抱えていて、一人暮らしの間は仕事でずっとストレスを抱えていて、とにかくずっと疲労していた。途切れ途切れにつけていた日記には「疲れた」「止まりたい」とよく書いてあった。いまはその止まりたいの感情を叶えているときだと思って、なるべくじっとしている。ほんとうの意味での健やかさがまだよくわかっていない。健やかに満ち足りた日々を送りたい。だから日々の繰り返す。健やかさの微調整の日々繰り返す。

2023-4-11(火)

朝散歩する公園で『集合、解散!』を読み、家で春の陽気と日差しの中でエリック・ロメールを見る。きのう拵えたスパイスカレーを食べて、昼寝をした。昼寝から目覚めて、読書をした。夕方『ティンダー・レモンケーキ・エフェクト』の発送があり、ついでに散歩に出ることにした。高円寺駅前まできて文禄堂に入る。新刊コーナーには小さいな出版社のエッセイが並べられていた。山口一郎の新刊を立ち読み。日記と詩の間のような小さな散文集でとてもよかった。真似したいと思った。ほかにも『私の生活改善運動』や『NEUTRAL COLORS』を手に取った。文禄堂にはいつきてもほしいと思える本があって、それがちゃんと出会える場所に配置されているのがいい。街の小さな本屋だから新刊中心であるけれど、その新刊のセレクトも最高だ。文禄堂はいつきても最高の本屋だ。文禄堂を出て、駅前を歩いていると、こうして夕方から夜にかけて、高円寺駅前を歩くのが好きだったことを思い出した。日々の暮らしの買い出しをしている人たちを眺めるのが好きだった。路地に入って、メンチカツとコロッケを買った。駅前広場の目立たない場所で食べる。ようやく暖かくなってよかった。春は春というだけで幸せだと感じてしまう。

久しぶりに古着屋に入って、買いもしないのに、手に取ったブラウスをあてたりした。買いもしないけど、楽しくなったりした。この古着屋には、昨年二人の友人の服を買うためにきた店だった。日曜日に会ったとき、片方はそのとき買った服を着ていて、もう片方は新しく買った服を着ていた。みんなに服を選んでもらって、今までなら自分では選ばなかったものも着てみると、案外似合うんだと気づいたと言っていた。すごくうれしかった。べつに服好きにならなくてもお洒落にならなくてもいい。自分が着たいと思えるものを選んで、自分が好きだと思っているものを身につけているのは、とても気持ちのよいことだし楽しいことだから、それが彼らの生活のなかにあることがうれしかった。

夕日に向かって歩いていた。友だちと友だちでいるのは、尊敬できるところがあるからで、そういう人たちと一緒にいられて幸せだと思った。いつ死ぬかわからないとしてやることがあるとすれば、友だちに一緒にいられて幸せだと表明することだ。わたしが日記を書いている理由は忘れたくないと思ったことを残しておくためだ。ふいに思い出しては自分を救ってくれたりする。それを人が見れるところで書いているのは、そうすることで記憶が定着されるからのような気がする。tinderで日記を送ることは読まれることよりも日記を送られることを意識していて、ゆるやかなコミュニケーションの起点としているから、よりそう感じるのかもしれない。でも最近人には見せない日記も書いていて、それは忘れるために書いている部分もある。悲しみや怒り、人には言えないことを、言葉に託して忘れていくために書いている。

 

備考

Tinderは文字制限があるので、文字制限を超してしまった日ははてなブログの日とすることにした。

2023-4-9(日)

早朝の音を求めて、高木正勝を流す。ホテルオークラのレシピでスコーンをつくる。強力粉のなかでバターをつぶしていく作業はスコーンをつくるときにしか発生しないのですきだ。スコーンを焼くと部屋がスコーンの香りがする。家に帰ってきたら毎日スコーンの香りがしていてほしいと思う。

窓から明るい光が差し込む。焼きたてのスコーンとコーヒーと朝の光が希望。大崎清夏さんのツイートを見て、坂本龍一のライブ映像を流す。おごそか。おごそかなまま、顔のパックをしてベランダに出たらお隣さんに見られた。突然見かけてしまうパック顔はこわいだろうな。きっとこのピアノソロも聴こえているだろう。こわいだろうなあ。まだおごそかなままメイクに取り掛かる。

メイクを終えて身支度を整えて家を出る。晴れているけど、旅行に行った朝みたいに空気が冷えてる。電車に乗っていると無性にceroorphansが聴きたくなって二回流した。そういえば去年第1回の日記祭に向かう日はスピッツを聴いていた。曲は忘れてしまったけど、あの日も同じようによく晴れて、小田急の窓から見る景色によくあっていた。

会場に着くと浮さんのライブ直前で、スタッフさんに「整理券まだありますか!?」と大声で聞いてしまった。大丈夫ですよー、と中に案内してくれた。浮さんはとても気になっていた。音源も聞いていたけど、この人はきっとライブの人だと思っていた。いつか聞く機会があるだろうと思っていたけど、それが日記祭でうれしかった。ああわたしがすきな曲だと思った。近くないけど遠くないけど近い、生活の歌。月日のスタッフもしているという浮さんが自身の日記の朗読をした。東村山から出なかった日の本人しかわからないような日記がよかった。ライブ後、植本さん、金川さん、滝口さんブースに一目散に向かう。植本さんと滝口さんの『ひとりになること 花をおくるよ』がすばらしくて、今回の『集合、解散!』もたのしみにしていた。サインをいただくときに「お名前書きますか?」と聞かれて「恥ずかしいので大丈夫です」というと「そんなに恥ずかしがらないで」と滝口さんに言われた。とても余計なことを言った気がする。お三人を目を見て「ありがとうございます」と言えてよかった。常連の途中さんブースにいくと、寝生活さんの表紙をやられていたデザイナーさんにたまたま会う。なんとなくいつか会える気がしていたのだけど、偶然途中さんブースで会えたのがうれしかった。Twitterの人に会うと思わなかったと言われたけど気持ちはよくわかる。会ってはじめて本当に実在したんだなって思う。会場をゆっくりまわる時間的余裕と金銭的余裕がなく、少しだけになってしまった。買うことを検討もできない本を手に取るのはやっぱり申し訳ない。でも少しでも話せて楽しかった。日記を書くこと読むことの楽しさは、ひとりひとりその楽しさ自体が違っていることだと思う。数ヶ月前は自分が出店者側だったなんて。ありがたさと、すげーと、信じられなさと、なんかとにかくふわふわとした高揚感を抱えながら、ボーナストラックから下北沢駅に向かう遊歩道を歩いた。冬にはなかった花が咲いていた。

代々木公園。近くに桜の木が一本ある。品種がわからないねとしばらく話していた。一気に冷え込むことを予測して着込んできた蛍光グリーンのニットのせいで汗ばんでいる。蛍光グリーンとあわせて引いた、グリーンをアイシャドウは消えていた。友だち二人が白パーカーに黒スキニーを着ていて、示し合わせたようにかぶっていた。西アジアから東でいちばんうまいらしいケバブはほんとうに驚くほどうまい。ホテルオークラの(レシピの)スコーンはやっぱり評判がいい。秋山竜次の『TOKAKUKA』をどうしても聞いてほしくて、Bluetoothスピーカーに繋いだ。そこからDJをやることになり『プラスチック・ラブ』を流す。おのおのがプラスチック・ラブのすばらしさについて語りはじめる。わたしたちは軽音同好会の集まりでこういう景色を見ると懐かしくなる。音楽の趣味は似ているようで似ていない。夕方寒くなって、テキパキした友だちが片付けをはじめる。わたしは余った枝豆をおいしいと言いながら食べていた。地下鉄の空気口で「あったかい」と暖をとっていたら「それをやりはじめたらもうおしまいだよ」と言われた。

なにかをずっと話したり聞き続けていたのに、あまり覚えていない。でもたしかに楽しかった。たぶんそのうちまた会う。

家に着いたらすぐ寝ていた。起きたら後輩が企画で関わった仕事を教えてくれた。ちゃんと着実にこれまでの努力を実らせているようですごい。しばらくすると、またべつの友だちから連絡がきた。「元気?」と聞かれて答えると「生存確認、完了!」と返信があった。うれしかった。どうというわけでもないけれど、あなたのことを気にかけています、というコミュニケーションがもっとあっていい。

無題

「ほんとに悪いことをしたと思ってるよ」その彼の言葉がうそでないと信じられる。彼はクズのくせにうそがつけるほど器用ではない。ただ「デート」とか女の子が喜びそうな言葉を使ってみたくなるクズな男なだけだ。なぜ許せてしまえるのかわからないけど、あまりひどいことをされたと思っていないのかもしれない。トラウマ級の出来事はあったけれど、ひとつのドラマをして受け入れている。「なかったことにはできないけど、まあもうわたしは友だちとは寝ない」「いやあ」居心地悪そうに彼がまたうつむく。今後の参考に彼に本命と遊びの違いを聞かせてよというと、そうだなあと言いながら、彼なりの線引きを話す。それにわたしは納得したし、そうだともわかっていた。わたしが持っていないものを彼女が持っていることを当時は認められなかった。もう少し飲もうよと言われて、店を出る。店を探しているとき、彼がこちらを見ているので、わたしも彼を見ると「どうしたの?」と彼がいう。「え、だって見てたじゃん」「そっか」そしてふたたび、彼が検討つけた店を目指して歩く。

また飲みはじめた。二軒め、頭がぼうとする。彼の横を通ったとき、彼の体臭と香水が混じった香りがする。彼の胸元に視線がいく。彼に抱かれていた自分を思い出した。階段を降りて、トイレの順番待ちをする。さっき合ってしまった、あのときの視線と視線を誤魔化せなかった。ぎこちない苦笑い。わたしたちはともに欲情しあう。だけど恋愛感情があるわけではない。関係性のやり直しをしたい。わたしたちはセックスに頼らない関係性を築くことができる。だから、彼の肩に触れないように、わたしは席に戻った。なにごとないように会話を続ける。思いついたことを投げかける。彼の返答にはっとさせられる。その佇まいや強さに強く惹かれていたし、本質的に好きだった。けれど、薄っぺらで下品な性欲でわたしたちはつながっていた。彼はわたしの好意を搾取して、わたしは彼への恋心を自ら踏みにじった。もうあんなことはお互いのためにやめるべきだ。わたしたちはちゃんとお互いに敬意を払いあっているし、これからもきっとお互いの存在が刺激になる。目先の性欲ほどくだらないものはない。「今日会えてうれしかった」という言葉の意味は、それだけだったはずなのに、声に出した瞬間言葉が重くなるのを感じる。慎重にそれを無視して、わたしたちは会話を進める。閉店時間となってお開きとなった。最寄り駅まで歩く。もう彼はわたしを誘ったりはしない。理性という力学。気づかぬふりして、わたしは「そこまで」といい、彼は「こっちだったよね」という。彼に促された道をわたしはそのまま進んだ。

2023-2-14(火)

柳宗理の寸どう鍋が届いた。いや、しばらく前に届いていたのだけど、開ける気力がなかった。開けてみると一人暮らしにはあきらかにオーバースペックな鍋がどーんとキッチンを占拠した。コンロに置いてみる。なんだかおかしくて笑えた。でかい鍋には生命力がみなぎっている。でかい鍋からは死の匂いがしない。どうしたって生きるしかないのだ。どうやったってお腹いっぱい、はちきれんばかりの料理ができそうだ。たっぷりのお湯を沸かして鶏ハムをつくる。今までのせせこましい雪平鍋での"たっぷりのお湯"はなんだったんだろう。これこそがたっぷりのお湯だ。