2023-4-18(火)

5時半に目が覚めていたのに、このところ疲れが溜まっているのか、朝8時前に目が覚めるように戻った。太陽がのぼりきる前の静けさの時間は特別だった。薄暗い窓がぱあっとあかるくなっていくさまをしずかに見届けている。ゆっくりストレッチしながら白湯を飲んで、朝ごはん食べて、日記を書いていると一日がはじまる。無理に起きようとしていたわけじゃなく、自然とそうなっていたから、少し寂しく思うけどたくさん寝るのもいい。今日は昼寝もしたからまだねむくない。

おそらく朝5時半に目が覚めていたのは躁気味だったのだと思う。これまで躁鬱人間だ!って冗談めかして言ってきたけど、ほんとにうつになってみて、いままでの出来事が「躁状態」と「うつ状態」で説明がつくなとふと腑に落ちた。人生でおかした顔を覆いたくなるような羞恥や失態はだいたい躁状態のときに起きたものだと思うと納得できる。躁状態の爽快さは、それ以外の状態とはまったく異なる。万能感というけれど、ほんとにそういう気持ちになる。感覚がなにもかも変わる。他人の感情もダイレクトに波のようにやってきて、うれしくてもかなしくても感情に絡め取られるように泣く。生きているだけでアイデアが湯水のようにとまらない。とにかく感情があふれて発露する先がないのでひたすらツイートが増える。そうした躁状態のときに、少しでも落ち込む出来事が起きるとそれに絡め取られて一気に鬱転してしまう。鬱のときはすべてのやる気が損なわれてしまう。気がつけば寝転んでなにをしたかとくに覚えてない時間が過ぎている。なにもしていないのに疲れている。人生で気づかない間にずっとこれを繰り返していた。自分の生きづらさやコントロールできなさはまちがいなく、ここに起因している。よくやってきたなと思った。

休職してからだいぶ落ち着いてきて、いまは自分の心地よい生活やそのリズムを探している。なにがよくてなにがわるいのか。小さな実験をするように毎日を過ごす。そういう日々のなかで、いかいにこれまで自分のことを見れていなかったと痛感した。ストレスを感じていると、自分を感知する能力が落ちるような気がする。小さい頃から家庭が心から安らげる場所ではなく、いま思えばストレスを抱えていて、一人暮らしの間は仕事でずっとストレスを抱えていて、とにかくずっと疲労していた。途切れ途切れにつけていた日記には「疲れた」「止まりたい」とよく書いてあった。いまはその止まりたいの感情を叶えているときだと思って、なるべくじっとしている。ほんとうの意味での健やかさがまだよくわかっていない。健やかに満ち足りた日々を送りたい。だから日々の繰り返す。健やかさの微調整の日々繰り返す。