2023-2-12(日)

朝も寝て、昼も寝て、夕方少し起きて、夜も寝る。雪が降ったのはもっとずっと前に感じる。折坂悠太を聴きながら外に出る。外に出てすぐヒートテックにニットにダウンジャケットを着ていることに後悔する。風がぬるい。もう寒くなってもいい時間なのにあたたかい。日が延びた。この交差点の道路を挟んでみる景色が好きだ。時間も季節もここで感じている。駅のほうまで歩いて、『違国日記』の新刊を手に取る。ひさしぶりに本屋にきたので、店内を歩く。目ぼしい本は見つけたくないのだけど。無事に店内を通過して、本をレジへ届けた。すこし散歩したいと思って、遠回りをする。お店の前を通過するときれいなおねえさんが流暢な英語を話しながら、おいしそうにタバコを吸っていた。人気のパン屋の前を通ると、カップルが店内を覗いている。わたしはまだ折坂悠太を聴いている。目ぼしい本は見つからなかったのではなく、目ぼしい本がわからなくなっている。しずかな毎日。

2023-2-2(木)

言葉にならない言葉が、言葉になる前にからだのなかにたまっていく感覚がこのところあって、だけれどそれを日記という形でむりやりかたちにするのもちがう気がして、自分がどうしたいのかを待っていた。ふとジャーナリング用のノートブックの存在を思い出して、鉛筆で日付を書いて文字を書いた。いま必要だったのは、こういう言葉にならない言葉がなんだったのか、それを自分で探って受け止めることだった。いやだいやだいやだ。こわいこわいこわい。そういうものをぜんぶいったん見ること。なにがいやなのか、なにがこわいのか、まだわからないこともあるけれど、いやなこととこわいことがあることがわかってよかった。

毎日時間があって、元気も出てきたので、外出したいと思うけど、いざ外に出ようと思うと「したくない」気持ちが勝つ。そうか、いまはしたくないのねと、とりあえず家にいることにする。積読のタワーが一冊抜き出して読んで、昼寝した。起きて料理をして食べた。お風呂を沸かす。最後のクナイプのバスソルトを使い切ってしまった。いまのわたしにはもう贅沢品だった。カモミールの香りに包まれながら、手作りのジンジャーシロップで、ホットジンジャーを飲んだ。しあわせだと思った。

2023-2-1(水)

シャワーを浴びる。宇多田ヒカルBADモードをかける。アロマスプレーをする。ハーブティーを淹れる。彼女を自分の中から追いやるために。ああもうだめだ。おなかのあたりが重い。もういっしょにいたくない。ごめんもうなかよくできないかも。この気持ちぜんぶ忘れたい。ハーブティーを胃に入れる。わたしがだめだった。いやわたしはわたしのままで、だから受け入れられなかった。全身を尖らせて、その針がわたしにも刺さったままだ。わざとじゃないという免罪符。わたしが彼女を受け入れる理由がないよ。彼女が「このようにしか生きられない。しょうがない。めんどくさいよねごめん」そうキリキリ声をあげていた。わたしはいっしょにいるとき、存在を無視されているような気分だった。彼女が怒りや悲しみをぶつけられなかった者の代替として、わたしがいるようだった。彼女の不遇のはけ口されているだけだった。わたしになにを求めてるの?と聞いたら「わたしの話を否定しないで聞いてくれる、わたしを異常者扱いしないでくれる」と言われた。彼女のためにわたしが壁になる理由がもはや見つからない。彼女はわたしと対話をする気はない。自分が安心するために他人を利用してるだけだった。それを無意識的にやってしまっているのだ。本人に悪気がないのもわかる。わたしのことを好きなのもわかる。だけど、わたしにとってはもう気持ちが奪われるだけで、気力がなくなっていく。そのような関係はもう続けられない。

2023-1-26(木)

歯医者に向かうと、スクリーンがかけられていて、まだ休憩中かと思ったら、今日は休診日だった。予約は明日だった。今日の予定は夜の寺尾紗穂と下津光史のツーマンだけになった。

ライブハウスにいくのは小さければ小さいほど緊張する。もうライブハウスも年下ばかりなのに、生き慣れない大学生みたいな垢抜けないオーラを、身から剥がすことができない。ドリンクで炭酸水を選んだら、ソフトドリンクだからフードがもらえると言われて、じゃがりこのじゃがバターをもらった。冬とライブハウスは相性が悪い。片手にコートとストール、片手には先ほど買ったドリンク。両手が塞がる。スマホを見ることも諦めて、なにかするでもなく時間がすぎるのを待つ。

出順は下津さんが先だった。下津さんのこと、きっと人間的には好きではない(友だちにはなれないという意味で)けれど、下津さんの曲や歌がすきだ。創作物という媒介を通してであれば、人は分かり合える。下津さんの歌を聴いてると、すべてが持っていかれそうになる。下津さんを見ていると、鳥、高く空を飛ぶ鳥を思い出す。あの軽さを腹に感じながら、色とりどりに照明がかわるステージを見つめる。

今日は寺尾紗穂が目当てだった。彼女の曲をいつか生で聴きたいと思っていた。去年日記を書きはじめたとき、寺尾さんの日記を読んでいて、ライブに行ってみたいと思っていた。ぽつぽつとゆるやかに、でも思ったより饒舌にMCをしていたのが印象的だった。寺尾さんは下津さんとは対照的に、演奏の様子は曲の媒介者であるような振る舞いにみえた。その曲と演奏の距離が心地よかった。下津さんは炭酸水だけど、寺尾さんは水だ。ふたりのツーマン、不思議な夜だ。

寺尾さんが「マヒトゥが今日来るかもって言ってたんだけど、マヒトゥいる?」というと「います〜」と聞き覚えのある声がする。「マヒトゥ、今日ギター持ってる?」「持ってない」「了解ですー」というやりとりが会場に響く。寺尾さんの了解ですーという言い方が好きだった、寺尾さんと下津さんのセッションに最後はマヒトも加わることになった。真っ赤な人がステージにあがる。真っ赤なコートを着ていて、真っ赤なコートだと思った。下津さんとマヒトさんの自由さにも寛容に対応できる寺尾さんの懐深いピアノ。自由に振る舞う二人に、安定感のある伴奏と歌声。もっとむちゃくちゃになったらどうなんだろうな、なんて考えてしまう。おもしろい掛け合わせで、すばらしいものだった。

2023-1-16(月)

夢の中の世界の照度はいつも暗い。暗いのに夢だと気づかない。この世界に違和感を持っているのにわたしは夢を夢だと気づくことができない。明晰夢というのを見ることができなくて、ただ再生されたテープのように、その世界を受け入れることしかできない。その世界はいつも暗い。いつか明るい照度の夢が見たい。日の当たる夢が見たい。

youtubeでたまたま『いい会社の選び方』を観ていた。

https://youtu.be/mptKm8lHpPE

自分はいかに社会のことを何も知らずまま社会に出たんだろうと思う。大企業と呼ばれる会社がなにをしているのかあまりよくわかっていない。日本の年功序列的なモデルはほぼ共産主義と動画内で評されていたけれど、このモデルで成り立つ企業が多く存在していれば、改革は必要ないし、その改革は給与面だけではなく、カルチャーも変わらないわけで、不遇な立場はいつまでも不遇なままだ。

 

いまこうして自分が体調を崩していることになにか直接的なあきらかな原因があったわけではない。とにかくある時期突然だめになった。なにがどれがストレスなのかわからないけど、とにかくだめになった。わたしは中小企業に属しているけど、給料も高くないわりに会社への忠誠心を求められるし、ほんとはクリエイティビティを評価しなくてはいけないのに、数字を評価する殺伐としたところになっている。経営者が社会も会社も市場も正しく理解することができないので、不毛な自画自賛で商品が死んでいく。そのことに毎日絶望しているのに辞める勇気さえない自分にどんどん絶望していく。そのうち惰性にまわすようになる。惰性でまわしていても罪悪感はない。だってここがおかしいのだから。なにも感じ取らないようにしていた。限界だとわかっているのに。それでついにだめになったのだと思った。全部が蓄積していた。会社にも自分にも嫌悪していた。もうわかっている、あの会社に戻る選択肢はない。

2023-1-15(日)

長らく時間をかけて読んでいた、西沢立衛『建築について話してみよう』を読み終えた。時間をかけるボリュームではないのに積読を挟んだら、気がつけば数ヶ月経っていた。一昨年末、西沢氏設計の「森山邸」に行ったことを思い出していた。アパートメントの機能を解体して、ボリューム違いのいくつかの棟が並んでいる集合住宅。この建築に訪れたとき、すごく希望が持てた。この先もこんなに美しいものが見たい、と思わせるような建築だった。公共建築などの大きい建築でそのように思うことはあれど、住宅建築でそう思えたことが希望だった。敷地に踏み入れると風景そのものが変わる。全身で感じる感覚が変わる。この身体感覚のなかで暮らすことは人間のなにを解放させるのだろうかと思った。SANAAのいう「環境」を身をもって感じた。また単に家賃収入を得ようと思ったら、たぶんこの建築にはならない。森山さんの美意識が全体に流れているようだった。施主である森山さんは西沢さんに依頼するくらいだから、そもそも文化的素養がかなりある方だと思うけれど、実際にご自宅を案内してもらうと、そこかしこに映画のディスクや美術書、アートピースがあって、それが嫌味なく生活に溶け込んでいた。潔癖的な美しさの保ち方ではなく、劣化や生活感のちゃんとあるのだけど、この空間全体が愛されているのだと感じた。住宅建築をあまり見たことないこともあるけれど、建築を見て、そんなふうに思うことはあまりなかった。その時間を反芻していた。

2023-1-14(土)

茶店で頼むチャイはゆっくりと味わうことができるのに、家で淹れるチャイはどんなにいい茶葉を使っていても、がぶ飲みしてしまうようなことが日常でも起きているような日々。あのカフェで飲むチャイよりも自分の手のなかにあるチャイのほうがずっと美味しいにも関わらず、いまはあの手に届かないチャイを欲しがっている。それがどういうことなのか、自分でもよくわからない。ほかにもあるさまざまな"目前のチャイ"を味わずに生きているような心地がしている。それは息をしているだけで、損をしているような感覚で、あり得たはずのことがいまここにないことの悲しさを、受け入れることもできずに、ただ呆然としている。チャイを味わうために、チャイをあえて、自分の手から手放してみても、そこにただ冷めたチャイがあるだけだ。アイスチャイも美味しいけれど。